女手一つで

「女手一つで子どもを育てる」この言葉は3年前に母子家庭となりそれがしっくりくる状況があるべきだったのですが、茨城県のAGAがおすすめの親は近くにいて何かあれば頼れるとことが出来たし、3人家族になったころはまだ、自分の足でしっかりと歩くことが出来ず、一人で子どもを育てるということがどういうことなのか理解できずにいました。

あれから少しずつ自分を立て直しながら生活をする中でだんだんとその意味を知り始めています。言葉のイメージは取り方によってはやや不憫というか、涙なしでは語れない感じに聞こえるかもしれませんが、私的には決してそうではないのです。

働いてお金を稼ぐことやそれによってこの子ども達を養うこと。それはどういうことなのか。そして私にとって今の仕事に対する思いや位置づけはどこにあるのか。業務をこなし人に揉まれながら仕事と自分について最近毎日のように気づくことの中で思います。泣き言など言っていられないということを。。。今日は自分の不甲斐無さで気がつくと悔し涙必死で堪えていました。家に帰りまた子どもの顔を見てほっとして涙腺が緩むのです。それでもやらなくてはいけないことが待っていて、家事をしながらまた思います。この厳しい状況が自分を強くし、そして強さはいつか優しさ=愛に変わると。するとまたどこからか力が湧きいてきます。

人の気持ちというのは必ず伝わるものだとここのところよく思います。良くも悪くもそれは伝わるのです。例えば周りの人のことをどう思ってどんな風にみているかはその人の自分に対しての態度などでのちのち気づくことになったりストレートにその場所でそのまま返ってくることもあります。とにかく自分が思っているようにしか現れないもので、自分自身のものの見方が目の前の状況を創るのだろうと思います。特に子どもとの関係はそれが分かりやすいです。母親の私が不安定だと子どももどこかでそれを感じて同じ状況に必ずなります。その反対に安定していると子どももどこか気楽です。だからと言って子どもの何かの原因は親の原因といって責任を感じなければいけないということではなく、そういったことをしっかり理解して過ごす毎日は、きっとそうでなかった日々とはまた別の風景があるということも少しずつわかってきました。これまでの一つ一つを反省するのではなく、また別の見方で見てみてみることはまた新しいことが始まるきかっけとなることだと思います。

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